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スクリーン印刷への扉

~国産スクリーン印刷機誕生秘話~

<昭和55年6月6日金曜日 日本工業新聞>

電子を刷る④ ニューロング精密工業

社長の井上は、根っからの技術屋である。父親の血をひいた、と井上はいう。

明治の尻っ尾の四十五年四月十七日、井上英雄・つね夫妻の長男として横浜のド真ん中の長者町で生まれた。

英雄は、長野県の農家の次男坊だったが、分家もままならず、当時の次男坊以下がたいていそうだったように、小学校を終えると東京に出て機械技術者の道を進んだ。第一次大戦の頃、日本では真ちゅうの製のタバコケースがはやった。真ちゅう板を二枚合わせ、ゴムバンドでタバコを固定するタイプのタバコケースだが、あの考案者が英雄だった。

「長野県人は努力家だから」

井上はいうが、英雄はその典型みたいな人物で、時代の変化に即応していろんな機械と取り組む、地道だが腕の確かな技術者として一代を築いたものだった。

井上が自認するように、その英雄に血が井上に受け継がれていた。まわりにいつも機械があったこともあって、井上は、物心ついた時から無類の機械好きだった。「玩具でも、完成品には興味を示しませんでした。なんでも部品を買い込んできて、小さな手にハンダゴテを持って自分で組み立てるのが遊びでしたね。そして、自分は機械屋になるんだというのが口グセでした」(井上)

だが、機械屋への道程は、それほど平坦な道ではなかった。

最初の障害は、中学受験の時にたち現れた。筆記試験に合格しながら、小学校六年の時に器械体操で骨折した左腕が原因で体力検査でハネられてしまう。

機械屋志望の井上少年も器械体操は、あまり得意でなかったらしい。が、この左腕、のちになって井上の人生に大きな役割を果たすことになる。このことは、のちに詳しく述べることになるが、人生というもの、なかなか面白いものではある。

昭和55年6月6日金曜日 日本工業新聞

さて、中学校受験に失敗した井上、遊んでいるわけにもいかない。夜学に通うことにして、上野の美術学校の校長づきの給仕になった。これが、次の転機につながる。

美術学校の事務室に、各地の学校の案内書が備えられていた。まだまだ向学心を失っていない井上は、暇なときにその案内書を読んで適当な学校さがしをしていた。その目にとまったのが、神奈川県立工業学校であった。

魅かれた理由がいくつかある。まず、県立だから学費が安い。それに設備もなかなか立派だ。もう一つ、寄宿舎のあるのが気に入った。たった一人の兄弟である弟を三歳でハシカで失った井上は、一人っ子だった。
それだけ親にかわいがられたのだが、ここは一番、親元を離れてのんびりと勉強をしてみたかった。

昭和元年、井上は念願の神奈川県立工業学校に入学した。好きな機械の勉強ができるとあって十四歳の少年の胸は、一杯の幸せと希望にふくらんでいた。

それから昭和六年の卒業の日まで、寄宿舎生活を存分に楽しみながら、のんびりと学生生活を送る。仕送りをしてもらって、何の心配もなく好きな勉強に打ち込めたこの歳月、いままでの半生の中でも、最も満たされた時間の一つだったと井上は述懐している。

卒業してから、また少しばかりの紆余曲折がある。時あたかも不景気のまっ只中である。昭和初頭から世界中を巻き込んだ恐慌の嵐が日本中を覆っていた。学校は出たものの満足な就職先がない。

お情けで三菱航空機の入社試験を受けたが、合格するはずはない。結局、同級生の兄が関係するゴム会社に見習工員として一年半ばかりお世話になった。

その後、東京瓦斯電気工業の合金鋳造課を経て、昭和九年十月、日産自動車の技術者募集に応募して入社、落ちついた。

日産での生活は、昭和二十一年、独立を目指して退社するまで続いた。

(敬称略)
<文・道田 国雄>

昭和55年6月3日~16日まで、2週間にわたって日本工業新聞(現:FujiSankei Business i.)に掲載された記事を、許可を得て転載しています。


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